職場がおうちへやってきた

職場がおうちへやってきた 第13回 - サクセスストーリー

[2009年10月15日掲載]

夢は叶う

1989年3月15日、その悲劇は起こった。

アルバイト仲間8人は、乗用車3台を連ね、長距離ドライブを楽しんでいた。19歳の田辺哲也(たなべ・てつや)は助手席の後ろにいた。窓越しに見える風景は、すでに春そのもの。心までが晴々としてくる。

と、突然の衝撃が哲也らを襲った。

追い越しに失敗し、乗用車が激しく横転したのだ。哲也は頭部を強打したものの、意識ははっきりしていて、何の問題もないかのように見えた。が、救急車の中で容態が急変した。まったく反応がなくなった哲也を受け入れる病院が、なかなか見つからない。3件目の病院で緊急手術となった。

哲也が目を覚ますと、そこは見慣れない病室だった。カレンダーは5月になっている。看護師が声をかけてきた。3月に事故で運ばれ手術を受けたこと、そして今がゴールデンウィークの後半であることを教えてくれた。

〈何があったんだ……〉

我に帰ると、両手足が完全にマヒしていた。動くのは首だけだった。哲也は愕然とする。

〈おれの人生、終わったな……〉

哲也には将来の夢があった。販売員、接客のプロである。スーパーの、たとえば食料品全般を扱うグロサリー売り場で、大勢のお客さんと向き合いたい、と。

少年時代は、ちょっと荒れていた。小学5年生の時に、懐いていた祖母が急逝したのがきっかけだった。孤立し、近寄る者を遠ざけた。両親をおおいに心配させたものだが、中学に入る頃には落ち着き、勉強にも部活動にも熱心になった。

高校卒業後、哲也は東京商科学院専門学校に入った。その頃には、哲也は和気藹々とした雰囲気に包まれていた。人と関わり、触れ合い、相手を和ませたい。そんな思いから、販売員への夢が生まれたのである。しかし一年後、その夢は事故によって、非情にも打ち砕かれてしまう。

生死の境をさまよった哲也だが、それでも、動かなかった機能が徐々に回復していく。3ヶ月後には、起立台で垂直に立っていられるまでになった。しかし、鏡に映った自分の姿を見た途端、哲也は気力をなくしてしまう。

〈死にたい……〉

すっかり弱気になった哲也に、そっと寄り添う女性がいた。哲也の恋人である。ある時、彼女は涙ながらに哲也を励ました。

「障害を持っていても、車いすに乗っていても、哲也は哲也。わたしは、ずっと待っているから」

この言葉が、死ぬことばかりを考えていた哲也を変えた。愛のなせる業である。哲也はすっかり前向きになった。もっともっとリハビリに専念しようと、横浜にあるリハビリ専門病院へ転院した。そこでの二年間に及ぶ訓練で、左手足が動かせるようになり、身の回りのことが一人でできるまでになった。自立心もたたき上げられた。

退院を目前に控えたある日、哲也の耳に、「重い障害があるが、売上管理の部門で就職した人がいる」という話が舞い込んでくる。

〈夢が叶うかもしれない!〉

意を強くした哲也は、就職への挑戦を始める。その第一歩として、東京都心身障害者福祉センターで、半年間の職業訓練に臨んだ。

ところが、である。職業適正検査の結果、就職は不可能であるという判定が出てしまったのだ。出鼻をくじかれ、深い挫折感に打ちのめされた。

しかし哲也は、決してあきらめなかった。もう、以前のような自分ではない。引き返すまい。興味のあったパソコンに目を向け、独学を始めたのである。その後、社会福祉法人東京コロニー「コロニー印刷」へ入所する。社会就労センターだったが、とにかく働いてみたかった。

コロニー印刷では、刊行物やチラシ、パンフレットなどの制作を請け負っていった。哲也は製造部門でDTPに携わった。3年間の寮生活ののち、マンションで独り暮らしも始めた。施設へは毎日、車いすを左足で漕いで通った。その生活は11年も続くことになる。

2006年、障害者自立支援法が施行され、障害者をとりまく環境が大きく変わった。福祉サービスにかかる障害者の自己負担額が増え、通所施設では月に約3万円の利用料と食費が請求される事態となった。哲也は憂えた。このままでは生活が苦しくなる。施設を辞めて、就職するよりほかはない。

天は哲也に味方した。東京コロニー職能開発室に相談をもちかけると、すぐに一つのIT関連企業を紹介された。

田辺哲也のスナップ写真

その企業こそ、OKIワークウェルであった。コロニー印刷での作業経験が認められ、トライアル雇用を経て正式採用となった。

〈夢は叶うんだ!〉

哲也は37歳になっていた。長年の一途な思い、地道な努力が、見事に実を結んだのである。

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