職場がおうちへやってきた

職場がおうちへやってきた 第11回 - サクセスストーリー

[2009年9月16日掲載]

質実剛健

トラックボールを回す。大きなキーボードを、両手のこぶしに巻いた自助具のスティックで叩く。ゆっくりでも確かな、これがO氏の見出したパソコンの操作方法である。

頸髄損傷の大けがを負ったのは、Oが高校生の時だった。学校で催された柔道大会の試合中の事故で、脊髄神経の5番目と6番目を傷めてしまったのである。下肢が完全にマヒし、上肢にも部分的にマヒが残った。

事故のあとに大手術を受けた。術後、3ヶ月間は寝たきりの状態だった。全身が硬直し、右手がわずかに動くだけの自分。それが、どうしても信じられない。

〈どうして、こんなことに……〉

両親に申し訳ない、と思った。

Oは1975年、奄美大島で生まれた。父親が教員だった関係で、鹿児島県の各地で育った。マジックで人を楽しませるような、明るく活発な少年だった。一方で、教育熱心で厳格な父親のもと、勉強にも本腰を入れていた。中学卒業後は大学進学を目指し、鹿児島の進学校で高校生活を送った。

Oの成長は順調そのものだった。だが、輝きに満ちたその幸せは、一瞬にして、闇の中に封じ込まれてしまったのである。

事故から半年が経ち、Oは寝たきりから解き放たれた。自助具を使った動作ができるようになり、マヒしていた左手も徐々に動かせるようになった。

しかし、後遺症は思いのほか重くのしかかった。泌尿器障害によって、高熱に苛まれる日々があった。起立性低血圧で失神することもあった。こんなことで、これから先を生きていけるのだろうか。Oは将来への不安でいっぱいになるのだった。

その時、Oの隠れたパワーがわき上がった。

〈負けたくない、ぜったいに負けない!〉

現状に屈してなるものか。もっともっと、リハビリをしたい。Oはリハビリの専門病院に移った。あえて両親の付き添いから離れた。できるかぎり自力でやらなければ、という思いがあったのだ。

そこでは、同じような立場におかれた人々が、それぞれの機能訓練に励んでいた。Oは決してあせらなかった。ベッドや車いすへの乗り降りをはじめ、さまざまなリハビリに、じっくりと取り組んでいったのである。

そこでのリハビリ生活は6年余りに及んだ。看護師や理学療法士、作業療法士などの医療スタッフによる支援、そして本人の揺るぎない意志。いつしか余裕も生まれ、ツインバスケットボールのチームに参加するまでになった。

退院後はまた、両親のもとで暮らすことになった。しかしOは、自立について真剣に考えるようになっていた。重い障害を持ちながら、独り暮しをしている人がいる。共同生活を営んでいる施設がある。そういった情報を敏感にとらえ、自分の目で確かめに行くこともあった。

そしてOは、自分なりの自立の道を見いだすのだった。

〈情報処理技術者、これだ!〉

まずは勉強にとりかかった。産業技術に目を向け、放送大学で経営管理などをみっちりと学んだ。ソフトウェア開発技術者などの国家資格も取った。

そのころOは、家族といっしょに千葉県に移住している。大学卒業後は、その地で就職を目指すことになった。しかし、就職は予想を超えて難しいものだった。身体介助が必要なOは、やはり条件が悪いのだ。

ある大手の企業に臨時で採用されたが、継続は許されなかった。身体の自由が利かないことで、Oの能力が充分に発揮できなかったのである。

〈資格や学歴は、能力として評価されないのか……〉

現実の厳しさに、すべてをあきらめそうになった。

そんなある日、Oに朗報が届いた。就職の相談に乗ってもらっていた社会福祉法人東京コロニーからで、重度障害者を在宅で雇っている会社がある、というのだ。

それが、OKIワークウェルだった。高いIT技術を身につけているOは歓迎され、ほどなく入社となった。2005年のことである。

自立への道が開かれた。勇気と自信を得たOは、かねてより目標にしていた、自動車運転免許の取得をも実現させるのだった。

Oは現在、両親との2世帯で愛妻と暮らしている。重度障害者が結婚するというのは、いろいろな面で難しいものである。しかしOは、それをも乗り越えてしまった。

「負けず嫌いなんです」

男らしい頑強な顔つきが、屈託なくほころぶ。

大きな目標があっても、まずは、身近なところから一つずつ、確実にクリアしていく。質実剛健、それがOの底力である。

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