職場がおうちへやってきた

職場がおうちへやってきた 第10回 - サクセスストーリー

[2009年9月1日掲載]

作り出す喜び

OKIネットワーカーズの曽根博雅(そね・ひろまさ)は、今日もプログラム開発に余念がない。

博雅がOKIワークウェルに入社したのは、2004年6月。創業したばかりの頃である。知人が新聞に載っていたOKIワークウェルの記事を切り抜き、博雅に届けてくれたのがきっかけだった。

博雅は、地元にあったソフト会社でプログラマーとして活躍していた。10年ほど勤めたところで社屋が移転。車いすでの通勤が距離的に難しくなり、取引先の事業所に派遣された。そこではハードウェア組み込みのソフト開発に携わった。ところが人員整理が始まり、その派遣業務も終了する。

しばらくは自宅勤務が続いた。しかしバブル崩壊の煽りで仕事が減っていく。先細りの状況に直面した博雅は、やむなく退職の道を選ぶのだった。だからと言って、プログラミングの仕事を諦めることはできない。1年間ほど、ハローワークに通い詰めた。

そんな中で思いがけず出会ったのが、OKIワークウェルだった。博雅は迷うことなく、OKIワークウェルに問い合わせの電話を入れた。在宅社員として働きたいと言うと、社長の木村が直々応対に出た。木村は快活に言った。

「大歓迎です」

その後、芝浦のOKIワークウェル本社で面接を受けた。プログラミングの技能と経験が決め手となり、博雅はすぐに入社となった。入社当日から本社へ呼ばれ、クライアントとの打ち合わせに立ち会った。博雅への会社の期待が、余程大きなものであったことがうかがえる。

博雅は1964年生まれ。東京・立川市の住宅地で、弟たちと共に両親の愛情の中で育った。どちらかといえば地味なタイプ。ただ、ちょっと変わったことが好きな子供だったという。

「ちと、ひねくれているというか……。人と違ったところに楽しみを感じたものです。そう、たとえば、アニメの“チキチキマシン猛レース”では“マジックスリー”が一番好きだとか」

“マジックスリー”というのはメカニック担当の工学博士で、レースを妨害する悪玉に立ち向かう人格者。主役よりも脇役のほうに目がいったのである。

博雅は高校までをスムーズに進み、大学では国際経済を専攻。また器械体操に興味をもち、部活にも積極的に取り組んだ。そして、その器械体操が、博雅の人生を大きく変えてしまう。

体操部のメンバーは、いつものように各種目の練習に励んでいた。博雅も鉄棒で大車輪を始めた。順調に回転が続く。

と、その時である。あまりの勢いで博雅は前方に投げ出されてしまった。安全はじゅうぶんに配慮されていたはずだったが……。床に落ちた時の衝撃で、脊髄神経の7番目を損傷する重傷を負った。これによって四肢の麻痺を余儀なくされてしまう。1985年のことだった。

もともと楽天的な博雅。受傷した当初は〈そのうち直るだろう〉などと軽い気持ちでいた。しかし後遺症は意外なほど重く、腕と手首が片方向に動くだけ、また感覚が部分的に微かに残っただけであった。

入院が続いた。リハビリに明け暮れる毎日。身体はきついが、退屈な日々であった。そんな単調な生活の中で、博雅はあるアイテムに出会う。

ポケットコンピューター、いわゆるポケコンであった。シャープ製のポケコンを、体操部の同期で電子工学科にいた友人が貸してくれたのだ。両手の指があまり動かない博雅でも、これならキーを押すだけで自由に操作できる。

これが、なかなかおもしろい。創作的なことのできる部分、つまりプログラミングに大きな魅力を感じたのである。ポケコンには、プログラミング言語のBASICが搭載されていた。簡単な英単語を使うので、初心者にでも使いやすいものだった。

博雅はポケコンを使って、盛んにプログラミングを楽しんだ。作り出すということに喜びを覚えた。この経験が、それからの人生に揺るぎない価値をもたらしていく。

リハビリを終えて復学すると、パソコンも手に入れて一層コンピューターの世界にのめり込んだ。その後、博雅はソフト会社に入社し、プロのプログラマーとしての道を歩み始める。一度は途切れそうになったが、その道はOKIワークウェルへとつながっていたのである。

「キャリアには自信がありましたが、どんなふうに仕事をすることになるのか、そういう不安はありました」

しかし博雅は、今や、OKIワークウェルには欠かせない技術者、有能なプログラマーの一人である。入社後も、数多くのプログラムを作ってきている。

博雅はさわやかに言う。

「作ったプログラムたちが、なるべく長く有効利用されること、それが一番の目標ですね」

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