職場がおうちへやってきた

職場がおうちへやってきた 第3回 - サクセスストーリー

[2009年5月19日掲載]

視野を広げて

「ここまで来られたのは、いろんな人との“つながり”のおかげだと思っています。運が良かった、ということもありますね」

OKIネットワーカーズ第1号、その3名のうちの一人、樗木次男(ちしゃき・つぎお)。屈託のない笑顔。何とも、さわやかである。樗木の抱える障害は“変形性ジストニー”。筋肉が意に反して収縮したり、固くなったりする難病である。

四肢に機能障害があり座位も難しい。車いすを離れると殆ど寝たままとなる。何とか動かせるのは左手だけ。そのような状態にありながらも、パソコンを駆使して堅実な仕事ぶりをみせる。勤続10年、余裕も出てきた。

樗木は1971年生まれ。昆虫が好きで虫とりに夢中になる、そんな元気いっぱいの子どもだった。ところが、小学2年生の時、走っているうちに左足が内股になってしまう。それがだんだん癖のようになった。診察の結果、“変形性ジストニー”という難病であることが判明したのである。瞬くうちに歩行が困難になった。

年齢的なこともあって、障害については深く考えなかった。しかし、養護学校へ行くことになり、友だちと離れる時にはつらい思いをした。その養護学校で、樗木はさまざまなものを得た。その中に“小さな勇気”と“必要な図々しさ”がある。

養護学校では、外部の人と会って話すような機会はほとんどなかった。年に1回の普通校との交流会での目標は「普通校の人と3回は会話をすること」だった。そんな中、社会見学の一環として「電車に自分たちの力で乗ること」に挑戦した。駅にエレベーターやエスカレーターのない時代。樗木は意を決し、2人の車いす仲間と共に、行き交う人々に訴えかける。

「階段を上がるのを手伝ってください」
「この電車に乗せてください」

心拍数が上がり放題上がって、冷や汗がにじんでくる。そ知らぬ顔で通り過ぎる人も多かったが、心ある人が次々に立ち止まり手を貸してくれた。陸の孤島にいた樗木が、社会に関わる一歩を踏み出す瞬間であった。

養護学校を卒業すると、希望していた普通高校に入学することができた。校歌も生徒手帳も、定期テストもない私立高校だった。人間性を重んじる自由な世界で、樗木の心は外へ外へと向くようになる。自分の将来についても想いを描き、福祉系大学への進学を目指した。結局は不合格だったが、目標に向かって努力するという姿勢だけは培われた。

数年後。とある福祉作業所で、工業部品を組み立てる樗木の姿があった。テスター部品の半田づけ、工業用ベアリングの加工。いずれも簡易な作業である。しかしそれだけに、樗木の思いは複雑だった。

〈自分は、ずっとこのままでよいのだろうか……〉

樗木は思い切って、自分を大空に解き放すことにした。もっともっと視野を広げ、やりたいことを自由にやってみようと。その思いが、社会福祉法人東京コロニーの“重度障害者在宅パソコン講習”を受講するチャンスを呼ぶことになる。

樗木は二年間の受講の中で、パソコンの知識と技術を懸命に学んだ。同期生の頑張りや個性にも刺激を受け、社会性を身につけることもできた。樗木は受講を終えると就業を目指し、東京コロニーのOBで組織するONE・STEP企画に参加した。その活動の中で、OKI社会貢献推進室の木村室長と運命的な出会いをすることになる。

1997年12月。樗木は、埼玉県蕨市の蕨商工会議所へ出向いた。“パソコンで年賀ハガキをつくろう”というボランティア講座の講師を任されたのである。その講座こそ、OKI社会貢献推進室が蕨商工会議所と共催するイベントであった。

「先生、これ、どうすればいいの?」

対象は高齢者。どんな些細な質問にも、樗木は誠意にあふれた指導で臨んだ。この優しげな車いすの青年講師に、受講者の誰もが信頼と親しみを寄せるのだった。帰りがけには、受講者たちが謝意を口にしながら深々と頭を下げていく。樗木はちょっと照れながらも感無量だった。樗木にとっても貴重な経験となった。

木村は会場の片隅から、その一部始終を見ていた。これが樗木への、OKIネットワーカーズとしての嘱望につながったのは言うまでもない。翌年6月、樗木は小川忠、中島徹治と共にOKIに採用され、OKIネットワーカーズとしての人生が始まるのだった。

「当時の自分にとって、一般企業で働けること自体が夢でしたので、まさに夢が叶った気分でした」

人との出会い、つながりを大切にする。それを心の支えにして、さまざまな経験を通して視野を広げていく。樗木の自己実現は、こうした姿勢があってこそ導かれたものであったに違いない。

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