[2009年4月30日掲載]
A氏がいなかったら恐らく、OKIネットワーカーズもOKIワークウェルも存在しなかったであろう。最大のキーパーソンだ。
OKI社会貢献推進室の木村良二室長を驚かせたのは、Aが、口にくわえたスティックでパソコンを操作していたことである。重い頚椎損傷で、上肢下肢ともにまったく動かすことができない。そんな状態でパソコンに向かう。にわかには信じがたい光景であった。
1986年3月26日、その事故は起きた。春休みを過ごしていたAが、オートバイを運転中に大型トラックと衝突したのだ。Aは救急車で病院へ運ばれたが、その重篤さから、さらに医療設備の充実した別の病院へと転送された。そこで緊急手術を受けるのだった。
数日間は人工呼吸器が手放せず、ただ朦朧(もうろう)としていた。徐々に意識がはっきりし、身体が動かなくなっていることに気がついた。言葉を発することさえできない。Aは現実を受け入れられず、いつか回復するものと信じていた。だが次第に、回復の見込みがないことを感じ始める。すべてに見捨てられたような絶望感を味わうのだった。
〈一生、ベッドの上なのか……〉 自暴自棄になりかけた時、Aを笑顔で支えてくれた人々がいた。両親、そして弟想いの姉である。医師やナースも優しく朗らかに接してくれた。その雰囲気によって、Aは絶望の淵に立ちながらも、自己を失うようなことはなかった。
受傷から一年が経ち、Aは長野県にあるリハビリ専門病院に移った。残された機能を120%活かして、日常生活に戻れるようにという目的であった。山々に囲まれ、のどかで、空気のきれいな場所だった。清廉なAはそこでも暖かく迎えられ、日々を明るく過ごした。
何より、パソコンに詳しい作業療法士や患者仲間がいたことが、Aに希望をもたらすことになる。あごと呼気で動かせるテレビゲームで遊んだり、わずかに動く肩の力で腕を振ってパソコンのキーボードを打ったり、そんなところに楽しみが見いだせたのである。
〈こんな自分にでも、できることがあるんだ〉 とりあえず、その日、一日を生きてみよう。二年半後にリハビリ病院を退院する頃には、Aはすっかり前向きになっていた。
1995年。Aは、パソコンをもっと詳しく知りたいと希望し、社会福祉法人東京コロニーの催す“重度障害者在宅パソコン講習”の受講を始める。Aは自分の身体に鑑みて、就労はできないと思っていた。パソコンの技術を身につけ、第二種情報処理技術者、初級シスアドといった国家試験に合格する。Aは、それでじゅうぶん満足だった。
講座の修了から、数ヶ月が経ったある日。Aに、東京コロニー・職能開発室の課長から電話がかかってきた。
「HTML作成の仕事があるんです。やってみませんか」 四次元ポートという会社が、決済端末機を使った通信販売サービスの提供を計画している。その画面に表示するコンテンツを作ってほしいというのだ。
Aはそのオファーに戸惑った。〈仕事となると、作るものに、それなりの責任を持たなくてはならない。それだけの能力があるかどうか……〉
その時は何気なく聞いていたが、四次元ポートというのは、OKIが出資に参加する企業でもあった。Aへの仕事をそこに選んだのは、障害者の在宅雇用を模索していた木村だったのである。この話に、Aが「何事もチャレンジだ、あたって砕けろ」と飛び込まなかったら、あるいは木村の挫折をも生み出したことであろう。
Aの作ったコンテンツは、すこぶる好評だった。木村は、Aの仕事ぶりに目を見張った。どんな重い障害があっても、高い技術力があれば、こんなふうに仕事ができるのだ、と。
続いてAは、木村の発注したOKI社会貢献推進室のホームページを手がけた。このことで、Aに、大きな転機が訪れる。木村とそのスタッフが、AをOKIで在宅雇用しようと動き出したのだ。就職へのプロセスが、トントン拍子に展開していく。本人が気持ちを整理する暇もないほどだったという。実際には難航し、一度は断念を余儀なくされた動きでもあった。しかし、木村らの弛まぬ努力が実を結んだのである。
Aは、東京コロニーで一緒だったB氏、C氏と共に、OKIの社員となった。それは同時に、OKIネットワーカーズの誕生でもあった。〈自分の人生、無駄じゃないんだ!〉 胸がおどった。両親も、おおいに喜んだ。
Aは今日もスティックをくわえ、熱い眼差しで会社のパソコンに向かう。目標は、あえて持たないことにしている。とりあえず一つずつ、目の前のやるべきことをやる。これが、Aが長い在宅勤務で得たポリシーである。